トヨタ社長への手紙

トヨタ自動車株式会社
代表取締役社長 渡辺捷昭 様

 私原告団の伊藤緑です。現在35歳です。
 私は、2歳から発病し気管支喘息と診断されました。
 幼児の頃のことは、発作を起こして夜中で雨の中でも母の自転車の後ろに乗り、病院に行き、吸入と言う薬を行うと治療と点滴を行い、それでも治らない場合は、入院になり、幼児の頃の記憶は病院に入院していることの記憶が多いです。それは今でも悲しい記憶です。母には大変な苦労をかけたと今思っています。大きくなると治ると思っていましたが、苦しい時は一人で病院に行けるようになりましたが、入院生活は変わりありませんでした。
 病院から学校に通う生活は、私にとって辛い思いでした。みんなと一緒に通学が出来ないからです。自分が喘息で友達はみんな元気で生活が出来るのに私はそれが出来なく私は」喘息のことは友達に話せませんでした。話せないのは、私もみんなと同じようになりたいからです。大人になっても治らなく、19歳の時には大発作を起こし、医師から家族へ死にもかかわると後から知りました。
 19歳の大発作の時には、意識がなくなり、気がついた時には、おむつをしている状態でそれは悲しい思いをしました。私は、この喘息とともに成長してきました。
 喘息でありながらも、夢があり、それに向かい走ろうとする時でも喘息は起こり、私の夢は25歳で終わりました。
 その後ますます喘息がひどくなり、夢も消えてこのまま喘息で死んでしまいたいと思った時もありました。
 青春時代喘息である私は、この喘息で沢山苦しみそして失うものも多かったです。私は、喘息のために失った傷は今でも心の中に残ってしまいました。それは、大人になって今も続いている喘息がどれだけ私を苦しめているか、喘息でない人たちは分かってくれるのでしょうか。
 私は35歳になりましたが喘息のため、仕事も出来ず今やれることは、原告の一人としてみんなとこの苦しみを分かってもらい、安心した生活が出来るように願っています。そして国が、みんながこの喘息の苦しみを分かってくれることを祈ることしか出来ません。私の青春と同じ苦しみを持っている人たちのため理解してほしいです。
 そして私は、仕事もできません 今は原告のみなさんや喘息で苦しんでいる人たちのため謝罪と解決金を勝ち取ることは、喘息で生きていくうえで不可欠なことです。
 どうかこの青春とこれからの事を考えて、謝罪と解決金について誠意ある回答を重ねて要求します。

2007年2月20日 原告・伊藤 緑

あなた方も人間、私達も人間です

社長様始め、重役の皆様
患者を何人出し・・・
死者を何人だせば・・・
皆様方には「悪かった」と謝罪が出来るのですか

あなた方も人間、私達も人間です
ただ違うところは、皆様には元気で働き、明日にきぼうが持てる事です
私達は、手足をもぎ取られた「だるまさま」です
動くことも仕事も思うように出来ないことです
それでも生きています
働けないくやしさ、悲しさ・・・
それに少しでも無理をすれば・・・
死にそうなくらい苦しみ・・・
体だけではなく心までずたずたになり
一日一日やっと生きています
こんな生活が皆様にはわかっていただけますか?
自動車だって動けなくなれば油をさしたり、悪い所を見つけ
ぶんかいし、新しい部品ととりかえて車を動かしますね
私達には、どんなに悪くなっても油をさす事だけしか出来ないのです
皆に迷惑をかけなければ生きていけないのです
一日でいいから、元気で働き皆様にお礼がしたいのです
これが今の私の本音です
・・・でもそれは、夢です

一日も早く悪かったと謝罪してください

影山シツ子

私は小学校に上がる少し前に喘息になりました。

 喘息発作は苦しいという一言では言い表せません。プールで潜水で泳いでいて、「もうこれ以上もぐって進めない、水面で息継ぎしたい」そんな呼吸状態にある時、「息吸わせないぞ!」と頭を押さえつけられたままでいる感じなのです。病院に一刻も早くかけこんで、点滴をしてもらうことで、生きられるのです。
 小学校、中学校生活は、走ったり、体をすばやく動かさなければならない体育や行事では、どんなに頑張ろうとしても呼吸の事が常に関わります。
 「頑張らない、怠けている」と非難され、「近寄るな、ばい菌」、「うつる」と言葉の暴力を浴びせられ、同時に身体的な暴力もクラスの人から受けてきました。どれも、喘息という病気が理解されない事から起こった事だと思います。しかし、私は精神的に追い詰められ、クラスの人たちが怖くなり、対人恐怖に陥りました。
 夜喘息発作は悪化します。明け方までかかって点滴して、何とか呼吸を取り戻し、1〜2時間ウトウトして学校へ行く準備です。睡眠時間も常に不足状態で、クラスのみんなと同じ行動や、速さで一緒にやらなければならず、喘息患者は人の何倍も頑張って生活してきたのです。
 私は喘息によって、入院やら夜の治療で、医療に拘束される時間が多く、学校の学習時間が健康な人の半分もありませんでした。
 喘息を持った学生は、自分の将来の進路選択にも、努力してもかなわない職種があるのです。自分で懸命に努力して学校のハンディを克服しました。専門学校で資格をとり、その後のステップアップを図るためロサンゼルスに留学しました。
 車社会のロサンゼルスでは排ガス規制が徹底していたため、東京にいた時の様な苦しい発作はなく、飲み薬やセテロイド吸入役で何とか、生活する事ができました。
 日本に戻り、成田空港から帰宅途中、発作がでてしまい、改めて空気の汚れを実感させられました。
 帰国後、資格を生かして就職しました。早朝から夜遅くまでの仕事により、体力の限界で、再び強い発作が出ることが重なり、やむなく退職することになってしまいました。
 今は治療に専念しています。しかし、私の将来はどんなになってしますのか、ステロイド剤の副作用は生まれる子供に影響を与え、障害をもつ子供が生まれる確率が少なくないとも聞き、結婚も普通の人のように考えられないのだと、悲しくなります。
 排ガスが喘息を発症させ、私の体も人生も狂わされ、そして生涯にわたって、医療を受けずには、生きて行けない体になってしまいました。
 このような被害をもたらした責任を自覚していただきたいです。
 そして、私たちに謝罪して欲しいのです。 

2007年2月23日 小柳聡美

息子が一才のとき私が原告に、三才で息子も原告に・・・

 私は小林日登美と申します。
 このトヨタ自動車東京本社前には数え切れないほど通いました。ここへ来るたびに私は、裁判と共に育ってきたわが子の事をいつも思い出し、心の中で泣いています。
 息子が一才の時から裁判に加わり、三才から息子も原告になり、赤ちゃんの頃は、母親にあずけ、保育園に通っていた時は、トラックのマフラーが丁度あの子の顔の高さだった。
 小学生になっても、息子の発作は続いた。
 今日は、何処へ行ってくるよと言って送り出す。息子が帰る前には家にいるようにする、それでも遅くなってしまう。「ごめんね、ごめんね」と謝る生活が十数年つづいている。
 母として、ぜん息だけでも充分なことをしてあげられないのに、渡辺社長様が謝罪、損害賠償、被害を聞き入れてくださらないため、当たり前の生活が出来ないまま十数年もたってしまった。子供にとって十年は大きい。
 この四月から息子は中学生。今年になって私は目まぐるしく忙しくなり、息子の卒入学式の準備と重なり、投げ出したくなる。
 十年前も発作と育児で疲れていた、現在も同じぐらい疲れている。今日、これから帰っても主婦の仕事が出来ないくらい疲れが襲ってくる。
 私はまだ死ぬことはできません。
 私の母、夫、息子たち、私を必要としてくれているから死ねません。
 貴社は、芸術文化振興基金へ支援されておられますよね。とても立派なことだと思います。その立派さを私たち原告に向けてください。
 損害賠償と謝罪を強く求めます。   

2007年2月28日 小林日登美

医師の一人として 苦しむ喘息患者の一人として訴える

  この度、大気汚染公害裁判の原告の一人として訴えます。
 和解を勧められていますが、貴社をはじめとする自動車メーカー各社が、吾々の苦痛を理解せず、要望を受け入れないことは甚だ不満足で、怒りさえ覚えます。
 原告中の少ない医師の一人として、14年に渡り苦しむ喘息患者の一人として、訴える次第です。
 私は、現在81才、上京して54年、杉並区に住み、環状8号線から東へ約250米、早稲田通りの北約180米の下井草4丁目に生活し、診療所は井荻トンネルより約75米東にあり、文字通り「環八喘息」の好発する場所で気管支喘息に罹りました。
 それは1993年2月下旬(満14年前)、井荻トンネル工事で、昼夜を分かたぬ騒音、振動と排気ガスの中で発症したのです。 
 種々の治療で改善されはしたものの、患者さんの中には瀕したり、実際に死亡された方もありました。私は生き残りましたが、死への不安に悩まされて居ります。
 使った空気清浄器は10台を超えました。そのフィルターの汚染は、やや改善されたもののひどいものです。種々の調査結果により大気汚染改善が言われますが・・・。
 その証拠に昨年の厚労省発表でも小児をはじめとする若年者の喘息患者は増加しております。
 医学生の頃(約60年前)喘息では死なぬと教えられましたが、現実には年数千人が喘息死して居ります。その元凶は、排気ガス中の微粒子であることは明らかです。
 この事実をふまえて、改善を図ることは当然であり、患者救済のため善処されることは喫緊の問題です。
 私共患者、特に老人は死が迫って居り、医療・福祉の抑圧により更に加速されて居ります。
 損害賠償と患者救済、排ガス縮少に尽力することは当然です。
 吾々の切なる要求を受け入れることを切望します。   

杉並区原告 福嶋義郎

私のぜん息で 主人の健康 子供の夢まで奪われて

 私が気管支ぜん息と診断されたのは、20年前の事です。
 「もう治る事はないので、薬で発作を押えるしかありません」と宣告されました。それ以来、発作を押える為に強い薬を飲み、量も増えています。
 当時は、自分の夢が叶い希望していた銀行に勤め、2人の子供にも恵まれ、充実した日々でした。
 しかし、この病気になってから、発作が出ると、息をする事で精一杯になり子育てどころではありません。
 仕事中、発作が出れば点滴をして仕事に戻るといった日々が続き、とうとう体力がもたず、退職せざるをえなくなり、本当にくやしい思いをしました。
 収入が減った事で、主人の負担は大きくなりました。
 考えて見て下さい。もしあなたが疲れて帰ってきて寝ようとした時、毎晩発作で起こされる日々が続いたとしたらどうですか。
 結局、主人は睡眠不足、疲労等の無理を重ねた結果、うつ状態になり入院してしまいました。家計は苦しくなり、その後子供の学費は、小中学校は修学助成金、高校は区の奨学金のお世話になりました。特に高校進学の時には、子供が本当に希望する学校さえ、あきらめてもらいました。
 この病気のせいで、自分が苦しいだけでなく、主人の健康、子供の夢まで奪ってしまったのです。
 最近大学生になった息子に、「学費大変だよね。ごめんなさい」といわれ、子供にまでお金の心配をさせてしまい、親として本当に情けないと思いました。
 できる事なら元の体に戻ってほしい、失った時間、収入を返してほしい。
 この病気の原因に関してトヨタは、まったく関係が無いと言い切れますか。利益の為なら人の命や健康を犠牲にしてもかまわないという方針ですか。
 仕事は失敗しても、やり直せますが、命は失ったら戻らないのです。いつ発作がおきるかわからない不安を抱えながら、貴社の前での座り込みはもういやです。
 一日も早く解決する方法はただ一つ、失った健康に対して謝罪を、そして損害に対して賠償を強く望みます。
 決して妥協は致しません。

板橋区 渡辺幸代

会社も家庭も壊された

 私の慢性気管支炎という病気が発病したのは、37才頃でした。
 18才で運転免許を取得し、20才で父の会社に入社し、24才で結婚して1男1女を設け、希望に輝いて仕事を愛し家庭を大事にして生活していました。
 しかし、車社会で営業の仕事を1日中汚れた排気ガスを吸い続けた結果が今の生活でした。
 気がつくと肺はレントゲンで真っ白になり息を吸うことも吐くこともできない体になっていました。
 妻とは離婚、子供とも別々の生活をせざるをえなくなりました。体を立て直そうと有名なお医者さんにかかりましたが、時すでに遅く、この病気は一生治らないと宣告されしまいました。
 働いて得たお金は、全部医療費に消え、現在は在宅酸素を吸ってしか生きていけない生活保護の身です。
 残った人生の(現在57才)事を考えるとどうしようもない毎日です。
 病気になった20年間に対して、謝罪と損害賠償金の支払い、この2点を早急に行うことを要求します。

原告 初山彰一

 私は、公害ぜん息という病気になり、何年たったかわからないぐらい永い年月がたちました。
 主人は夜中も苦しむ私の介護をしてくれました。
 私の介護の疲れから、仕事で手を落としたり、大手術をするような病気になり、お金もずいぶんかかり、生活も苦しく死も考えた事もありました。
 又、私は重責発作になり、酸素テントの中で、生死をさまよっていました。親戚も集まり、また私のお腹の中には43才にして出来た子供が5ヶ月に入っていました。
 でも、先生が子供は無理だといわれ、目の前がまっ黒でしたが、主人と話し中絶しました。
 女の子で、今生きていれば23才になります。
 名前も主人と私の字をとって「みよ」と名付けましたが、写真がないのです。
 身代わりにお人形を大切にかわいがっています。
 今、主人はあのコインロッカーのような箱の中で14年間も入っているのです。
 100円や500円では出せないのです。
 早く、お寺に安住させて土に帰してあげたいのですが、今の私にはお金がありません。わずかな遺族年金で生活し、病院の費用もやっとです。
 私達患者の事を早くわかって、謝罪と一時金をお願いします。
 私も主人と同じお墓に入りたいです。      

第三次原告 吉澤ヨシエ

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